作者 池 秀子
今年もドキドキワクワクの年になりそう 平成十年、えっもう十年!?、十年ひと昔というけど、その一昔を私もいくつか積み重ねお嬢ちゃんからお姉ちゃん、お姉ちゃんからおばちゃんへと、着実に変化の一路を歩んできちゃったわ。鏡を見ては、目じりの小じわにテープを張っつけ「まだ間に合うわよ・・・」なんて期待をかけてる今日この頃・・・。だけど今私に与えられた“おばちゃん”時代こそ女の人生において一番面白くて味わい深い“華”のときではないかと開き直っているのよ。結婚して、農業やって、子供を生んで、泣いて笑っていろいろあって、若い日に想像すらしなかったありとあらゆる体験の連続なんだもん。夫の五衛門(註:宏さん)とは十三年一緒に生きてきたけれど、ふたりとも「思い立ったら即実行」のタイプなので、これまであんまり後先考えずいろんなことに挑戦してきたわ。本業である農業を柱に、トークショーにコンサート、CD制作に加えて仲人さんをやっちゃったり、写真集を作ったときには、人妻でありながら私も勇気を出して人肌?脱いだのよ。自慢じゃないけど、農業界では少しばかり騒がれたんだから。五衛門倶楽部のメンバーは、我が家にやってきた農業研修生やその他多くの仲間たち。毎年いろんなことをおもしろおかしくやってるわ。去年の暮れには「五衛門さんの恋愛指南」といってCDの付録がついた本をJAグループの家の光協会さんから出版したのよ。この本は、独身男性を対象に恋の手ほどきをしたものでとにかくおもしろい。もちろん私も“あげまめ地蔵”というキャラクターで登場しているわ。CDの曲は「やっぱ百姓やめられんばい」「やっぱ実家にゃ帰られんばい」。どちらもパワーあふれる楽しい曲よ。実は、このCD、あの小室哲也や安室奈美恵で有名なエイベックスのディレクターさんに聴いてもらったのよ。そしたら「なかなかいいじゃないか」と太鼓判を押してもらっちゃった。ただエイベックスが手がけている曲の路線とは、ちとカラーが違うとかでクラウンレコードさんを紹介して下さったわ。何しろ私たちの曲はコミック演歌系なので安室ちゃんやMAXには、とうてい踊れそうもないとてもハイレベルな曲だった!?って事よね。今、芸能界は、安室ちゃんの結婚、出産。はたまた小柳ルミ子と大澄賢也の離婚の危機、そんなことで少〜し隙間があいてる観があるわね。そこで私たち五衛門倶楽部が、そこの隙間をめがけて入り込む・・・。なんてのはどうかしら。それこそビニールハウスを背中にしょっての芸能界入りになるってわけ。五衛門とせっせとイチゴの収穫をしながらも、こんな夢物語に話がはずむはずむ。私なんて、すっかり、“おばちゃん”を忘れて舞い上がってしまったわよ。とにかく今年もきっとドキドキワクワクの楽しい一年になりそうな気がするわ。 毎日がバレンタインデーでいいんだってば 女の子にとってダイエットには最たる敵といわれるチョコレート。だけどこの日だけはそのチョコレートを見方にし、女の子は堂々と男の子に愛を告白するの・・・。二月十四日、バレンタインデー。デパートのお菓子売り場はひと月以上も前からチョコ、チョコ、チョコのオンパレード。本命チョコから義理チョコまで、山積みされたその売り場には女子学生にOL、はたまたおばさま方までもがいっせいに群がるってわけよ。そもそもバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は日本だけのものらしいわ。どこかのチョコレートメーカーの甘〜い罠だと聞いてはいるけど、世の女性たちもたいしたものよね。罠に掛かったふりをして一世一代の愛のイベントをちゃっかり企てるんだから。これはもう随分前のことだけど、私の女友達は一人のある男の子に恋をしたの。その日はなんと二月十五日、バレンタインデーの翌日だったわ。彼女は来年のバレンタインデーに絶対告白するんだと心に決め、それから一年間彼に対する想いをひたすら温めていたわ。そして一年後のバレンタインデーを間近にしたある日、私は彼女のチョコ選びに付き合ったの。彼女ったらあれこれ迷ったあげく私を三時間も振り回してくれたのよ。「いいかげんに決めようよー」。せかす私に彼女はひとこと「いいかげんには決められないの。女の勝負がかかってんだからね」。その時の彼女の様子からは、ばくち打ちのそれと似た気迫すら感じられたわ。そして、いよいよバレンタインデー当日。彼女はイヤがる私を一人じゃ心細いからといって、なんと告白現場へ連れて行くじゃない。おかげで、私までドキドキしちゃったわ。だけどね・・・。結果はバツ。その男の子ったら、私たちが必死で探し回ったチョコさえ受け取らなかったんだから。だけど、仕方ないの。彼には夏ごろから付き合っている女の子がいたんだって。隣で茫然と立ち尽くす彼女・・・。まるで自分が振られたかのように落ち込む私・・・。彼女と黙って歩く帰り道、石ころけ飛ばし歩く帰り道、その道のりのなんと長かったことか・・・。別れの際、彼女がぽつんといったの「これあげる」「えっ」「友情の印としてもらっといて」そういいながら彼女が私に差し出した四角箱の真っ赤なリボンがやけにせつなかったわ。涙目の彼女に、涙目の私はありったけの笑顔でいったのよ。「そうよ!女の友情が一番よ!この私がついてるからねー」(ちっとも慰めになってなかったと思うけど・・・。)男女にかかわらず、自分の思いを告白するとき、そのタイミングを計るということは大切なことだと思うけど、いい加減な情報や、根拠のないおまじないなどに踊らされるようなことほど滑稽なことはないと思うのよ。大安、仏滅だってこの際関係なし。今日も明日もあさっても、毎日がバレンタインデーでいいんだってば。予告なしにある日突然恋が始まるように、思いがけない愛の告白ってのもドラマチックで私は好きよ。 心ウキウキ春だというのに・・・ 「お願い!今すぐ別れて・・・。もうこれ以上私を苦しめないで!ハッハッハックション!!」よりによって苺農家の私が苺の花粉症だったなんて・・・。苺の出荷が始まる十二月から五月までの半年間は、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、加えて肌あれ、目のかゆみとイヤでも付き合わなくちゃならない私。一刻も早くこの花粉症やらとは、きれいさっぱりおさらばしたいというのに、完治するのは難しいらしいわ。この時期、ゴーグルと防塵マスクは、苺詰めをする私にとって必需品なのよ。花粉をすべてシャットアウトするためには、完全防備で臨まなくっちゃね。だけど、うちの子供たちに言わせると、この格好があの映画の「プレデター」に似ているらしくて、ほんとにせつないったらありゃしない。それにこんな時に限ってあの俳優の反町君にクリソツな宅急便のお兄さんが大きな荷物を抱えてやってきたりするのよね。確かに私の姿は、苺を詰めているプレデターそのものだったかもしれない。だからといってそんなに驚くことないでしょう?何も危害を加えたりはしないわよ。反町君があんまり怯えるもんで、ゴーグルとマスクをちゃんとはずしてあげたじゃない。ただ忘れていたのよね。顔中にクッキリ跡形が残っていたことを・・・。そりゃあ無気味だったろうと思うわ。パンツのゴム跡のようなものが、目と口の周りにあるんだもの。私は、なんとかイメージアップをしようと思い、目の前の苺を山盛りパックに詰め込んで反町君に手渡したのよ。なのに、なのに、「どうも・・・」って暗〜い返事だけ。「そっ、そりゃないだろー反町!」少々気分を害した私も何とか元気を取り戻し、さっき投げ捨てたゴーグルとマスクを再装着し苺を詰め始めたわ。「こんなことぐらいで動揺してどうする。私は苺詰めのプロなんだから。花粉症がなんだ!プレデターかかってこい!!」。聞くところによると、この花粉症、日本で最初に発見されたのが昭和三十六年で、現在日本人の十人に一人は花粉症だということよ。そしてその八〇%の人たちがスギ花粉症に苦しんでいるらしいわ。戦後、山村復興事業として大量のスギの植林がなされたそうなの。その結果、花粉量が一番ピークのとなる樹齢三十年にあたる昭和50年代に入った頃から、爆発的に花粉症患者が増加したんだって・・・。それにしても心ウキウキ春だというのに、鼻水たらりじゃ可愛くないわよね。この際、花粉症に効果がるといわれているものには全てトライすることにしたわ。寒風摩擦に冷水摩擦、冷水欲に冷水洗眼、少々寒くても薄着に勤め、とにかく自律神経を鍛えなくっちゃ。先日、夫の五衛門が、私のためにと空気清浄機と加湿器を買ってきてくれたわ。これでせっせと苺詰めに励めってこと!?人間、生きていればいろいろあるものよね。たとえ苦しくとも、美しく戦い続けなければいけないこともあるってことよ。私にとって今こそ、まさに優雅にやせ我慢の時なんだわ。 ほんとに気の会う女友達 「なんだかあなたの声が急に聞きたくなっちゃって・・・。声でも聞いたら元気が出ると思ったのよ。苺詰めが忙しいんでしょ?こんな時期にごめんね」彼女ったら、私の声を聞いたぐらいで元気になれるなんて・・・。私も相当見込まれたもんだわ。それにしても、こんな陽気な春の日にションボリ電話をかけてくるなんて、彼女ったらよほど辛かったのね。と言っても、彼女は私よりもいくつも上のお姉さん。日頃は、私が妹分として何かと面倒を見てもらっているんだけど、時に、なぜかしら私のほうがお姉さん役に早変わりして、彼女のお守りをすることがあるってわけ。彼女は、素敵なだんな様と結婚していて、二人の子供を愛情豊かに育てながら、きちんと仕事も続けているの。おまけに舅さんたちとも仲良く同居していてスーパーウーマンなのよ。だけど、そんな逞しい彼女にもやはりせつなくやるせない日がたまにあるのよ。私は、どんな時でも、彼女の話はしっかり聞くわよ。農業やってるわたしにとって、そりゃあ苺詰めも大事だけど、彼女のことはもっと大事なの。彼女が怒るときは、私も火に油を注ぐ勢いで一緒に怒りまくるし、彼女が電話口で泣き出したら、私だってこっちでワンワン泣いちゃう。彼女が笑いはじめたら、受話器を抱えて彼女以上に大声で笑い転げて止まんない。時々、年下の分際でありながら、彼女に向かって、それもひどく落ち込んでる彼女に向かって「もっと落ち込むんだ!」「この際もっと苦しむ方が強くなれるゾ!」なんて、まるで鬼のようなきつい言葉を浴びせることもあるわ。普通の感覚では理解できないかもしれない・・・。現に、隣で何気なく私たちのやりとりを聞いていた夫、五衛門に「まるでケンカでもしているような感じだね」って言われたことがあったもん。だけど、私にしてみれば彼女に対する合いのムチだったりするわけよ。そこのところを、よーくわかってくれている彼女は、鬼のような私の言葉を天使のささやきとして受け止めてくれるホントにいいヤツなの。私は、彼女とはこの先もずっと仲良くやっていくつもりだから、上っ面だけのお付き合いはしようと思っていないのよ。ガンガン本音でぶつかり合っていこうと思ってる。あれから一週間・・・。彼女、もう立ち直ったかな?やっぱり彼女には、おいしいものをたらふく食べさせてやるか、温泉なんぞに連れ出すのが一番なのかもしれないわね。だけど、この季節だったら、桜の木下で「お花見」なんての案外いいかも。そうよ、大人の女性には、ましてや、日頃あわただしく働き詰めの私たちには、花を愛で、己を愛でる、まさに花あるゆとりの時間が必要なのよ。早速、計画立てなくちゃ!彼女に電話をかけなくちゃ!「モシモシー!――ってなわけでお花見行こうよ!!」「雨降ったらどうする?」「もちろん雨降っても決行!!」「そうよね。私たちなら、花より団子で満足できるもんね」それにしてもホントに気の合う女友達を持ったもんだ。 ホームで列車を待ちながら・・・ ここは、とある駅のプラットホーム。ちょっとした手違いから一時間程このホームで列車を待つことになってしまったの。春だというのに、こんな日に限ってパッとしない曇り空。おまけにビュンビュン風まで吹くんだもん・・・。こんなことなら鞄の中に薄いコートを一枚詰め込んでくるんだった。私は両腕を胸の前で組んだまま、とりあえずそばにある長椅子に腰を下ろすことにしたわ。「あと一時間・・・。一度改札を出て喫茶店でも探そうかしら・・・。」なんてふと思ったりもしたんだけど、何気なく座ったホームの長椅子、これには驚いてしまったわ。それが、とってもいいの。座った感じが何ともグッドなのよ。見た所、随分年代物のようだけど、背中にフィットする背もたれのカーブといい艶々した気の手触りといい文句なしの長椅子なの。「これはきっと土地に住む熟練された木工職人のおじさんが、丹精込めて作り上げたこだわりの一品に違いないわ」。なんて勝手に想像をふくらませながら、しばらくその長椅子の心地よさに身をまかせていたのよ。農作業で無理をしている私の背中や腰の痛みがうそのようにぐんぐん消えていくのがわかるのよ。ここは、私にとって、あわただしい日々の途中の飛びきり素敵な休憩所――。この時ばかりは、長椅子を独り占めできた幸運に心から感謝しちゃった。「たまには、こうして列車をひたすら待つのも悪くはないわね。」熱い缶コーヒーを飲みながら、ホームにぶら下がっている丸い大きな時計の針がぴこんと動いたのを横目で確認したわ。ちょうどその時、私の背後を長い長い貨物列車がゆっくりと通り過ぎていってね、渡井はその貨物列車を見送りながら、こんなことを思ったのよ。私たちの生活の中にも、いろんな「待つ」があるわよね。列車を待つ、バスを待つ、人を待つ、手紙を待つ、電話を待つ、返事を待つ、結果を待つ・・・。夢や希望に満ちた「待つ」があれば、何の約束や予定もないせつない「待つ」もあるのよ。どちらも「待つ」という行為には変わりはないんだけど、「待つ」ことの想いとなると天と地ほどの大きさな違いがあるみたいね。また、少しせっかちな人になると、「待つ」ことに耐えきれず、自分から突進していったりする。だけど思うのよ。時にはじっと「待つ」ことも必要だったりするんじゃないのかなって・・・。そして、どうせ「待つ」なら楽しみながら待ちたいものよね。私が素敵な椅子に出会えたように、じっと待っている間でも、周囲を見渡していれば結構愉快なドラマが転がっていたりするものよ。さっきまで、ほとんど人気のなかったホームにひとりふたりと人が集まってきたわ。そろそろ私が、待ちに待った列車とのご対面というわけね。私の心は今、とっても清々しいわよ。きっとこのホームにいる誰よりも軽やかに列車に飛び乗れる気がするわ。ラッキー! ちょっぴり“胸キュン”の花物語 「いつも明るく元気ー!」をモットーにしている私にご褒美なのかしら・・・。最近、お花をいただく機会がとっても多かったのよ。まず四月の私の誕生日、我が家を巣立っていった農業研修生たちが各地からいろんな花を贈ってくれたわ。ピンクのチューリップに黄色いフリージア、オレンジ色のガーベラに白いストックetc・・・。五月に入って親戚から大きな蜂のコチョウランをもらい、その翌日友人から造花のようなテカテカのアンスリュームが届き、母の日には子供たちからカーネーションをプレゼントされ、講演に出かけた先ではサーモンピンクのバラの花束をいただき、今日なんて近所のおじさんと軽トラックですれ違い際「ほれ、これやろう」と窓越しにヤマアジサイをかかえきれないほどもらっちゃった。ホントに花っていいわよね。心を満たしてくれるわ。そこに花があるだけで優しい気持ちになれるもの。だから花をいただくことも、また誰かに贈ることも私はどちらも嬉しくて仕方がないの。花といえば、私が大阪の小学校に通っていた大昔だけど、こんなことがあったのよ。あれは六年生の時だったわ。季節はちょうど今ごろ。その日、日直だった私は教室の花瓶の水換えをしていたの。目が覚めるような紫色のアジサイの花に見とれながら、その花瓶を両手で抱えて教室に戻ってきたとき、そこにいたのはクラスの人気者I君だった。私は滅多にI君と口を聞くことはなかった、というより、他の女の子たちの手前口を聞くことができなかったといったほうが正しいんだけど、その日はどういうわけか向こうから声をかけてきたの。「そのアジサイきれいやなあ」。「う…ん、きれいやねぇ」。「ほんまにいい色やし、きらいやなあ」。「うん、ほんまにこのアジサイは私みたいにきれいやわあ。エヘヘ・・・」。なんて、少しおどけながらついついこんなおませな口をきいてしまっていたわ。するとI君ったら、「おまえはアジサイよりヒマワリや」。なんて言ってくれるじゃない。なんだか照れちゃって・・・。だけど素知らぬふりで私は花瓶のアジサイの向きを整えながら、「どうして私がヒマワリなん?」と何気なくI君に尋ねたの。すると、「おまえの顔がでっかいからや!ハハハハ・・・」。I君ったら白い歯をむき出しにして大笑いしたのよ。腹が立つやら情けないやらおかしいやらで、幼い少女の心はズタズタに傷ついちゃったんだから・・・。それから半年後、私は父の転勤の都合で転校することになってしまい、I君ともその後会うこともなかったの。だけど、次の年の夏休み、I君から一枚の絵はがきが届いたのよ。青く澄みわたった大空に向かってすくすくと伸びているヒマワリの写真がついていたわ。そしてその片隅にこう書いてあったの。――ヒマワリを見ると、いつも元気で明るい君を思い出します。頑張ってください――。遠く幼い日のそんな花物語が、今もときどき私を勇気づけてくれているのかもしれない。――ヒマワリを見ると、私も元気になれます。がんばれそうな気がします――。私だけの遠い昔の嬉しい嬉しい花物語・・・。 うちの新車を帰せー! 車を降りる時だったわ。なぜかしらふと視線を感じ振り返ると、運転席の側にいつもちょこんと座っているぬいぐるみのパンダちゃんと目が合ったの。その日に限ってやけに寂しそうに見えたパンダちゃん。私は一緒に部屋に連れていくことにしたわ。翌朝、いつものように車に乗ろうとして車庫まで行くと、そこにあるべきはずの私の車が跡形もなく消えてしまっていたからもう大変。一瞬、イタチに、いやキツネにでもつままれたような気がしたわ。「も、もしかしてこれは盗難!?」私はしばらくの間、その事実をどうしても認めたくなかった。だってそうでしょ。ロックだってきちんとかけていたし、ピカピカ赤いランプの光る防犯装置だってついていたのよ。けたたましくなるはずのサイレンは一体どうしちゃったというのよ。だけど、「ここでじたばたしたって始まらないわ」。そう潔く決心はしたものの、さすがにクラッと目眩がしたわね。だってまだ新車だったのよ。N社のCという大型車。ブラックボディに本皮シート。テレビもついてて超ゴキゲンだったのに・・・。確かに排気量は4000ccのV8エンジン、ガソリンはよく食う車だったけど、車庫入れだって時々苦労はしたけど、最高に乗り心地の良いその車を、私はもちろんのこと家族皆がこよなく愛していたんだから・・・。マッキーや今井美紀のお気に入りのCDだって積んでいたし、私たち五衛門倶楽部が来年発表する予定の新曲デモテープだってのっけたままだった。それに、トランクには私の血と汗と涙と笑いのいっぱいつまった麦わら帽子に黄色い長靴、軍手にゴム手袋etc・・・。そう、名付けて“秀子の農作業セット”が一式入っていたのよ。全国にいる(!?)私のファンにしてみれば、これこそまさに値打ちのあるプレミア付きのお宝だったと嘆き悲しんでくれるに違いないわね。私は今、クーラーのついていない軽トラックを汗ダクダクで運転しているけど、これはあくまでも私の仮の姿なんだってば。今にきっとあの車が戻ってきて、私はまた以前のようにクーラーのガンガン効いた車に乗って、優雅に畑に向かう予定なの。なんて思っていたら、先日警察から連絡があって、ナンバープレートだけ発見されたというじゃない。久しぶりに手にしたナンバープレート、これだけ出てきてもどうしょうもないんだけど、それでも嬉しかったわ。「お帰りー!!」私は思わずそのプレートを抱きしめちゃった。危機一髪のところで奇跡的に私の手元へ残ってくれたぬいぐるみのパンダちゃんに感謝しながら、現在、いろんな意味で“忍”のひと文字とにらめっこ状態よ。「罪を憎んで人を憎まず」「苦あれば楽あり」「七転八起」「災難転じて福となす」毎日いろんな天の声が聞こえてくるわ。だけどね、時にはお腹からでっかい声で「バッカヤロー!」なんて叫んじゃやってもいいかな?いいよねー!! 冷や汗もののザリガニパーティー 暑中見舞い申し上げます。皆さんはこの暑い夏、どう乗り越えているのかな。 我が家では畑で取れた大きな大きなスイカをガンガンに冷やしてパクパク食べているわよ。農業って、これだからいいのよね。おじいちゃんにひたすら感謝!感謝! ところで、現在夏休み真っ只中の息子たち、小学校六年生と四年生なんだけど、日焼けした真っ黒な顔で毎日元気いっぱい飛び回っているわよ。悲惨な結果だった学期末の通知表のことなんてすっかり忘れてしまっているんだわ。ここまで伸び伸び遊びほうけている子供たちを見ていると、先々の不安を感じるというよりも、「学歴社会なんぞに負けるなよ!」と声援を送りたくなっちゃうわね。 あれは去年の夏だったわ。夕方、田の草はいをして帰ってきたおじいちゃんが、子供たちに「ほれ、お土産を持ってきたぞー」といって、丸々した牛ガエル(食用ガエル)をくれたの。子供たちったら「わーい!新しいペットだー」といって飛び上がって喜んだわ。早速、これまでザリガニを飼っていた大きな水槽に、新人(!?)牛ガエル君を同居させることにしたみたい。そして次の日、どうしたわけか朝早くから子供たちが外で大騒ぎしていたの。聞くと、ザリガニが新人牛ガエル君に驚いて脱走してしまったというじゃない。 半べそかいていた子供たち、次の瞬間、何を見て、何に気付いて、何を思ったのか、ほとんど二人同時に牛ガエル君を水槽から引っぱり出しバックドロップ、四の字固め、ブレンバスターetc・・・、ありとあらゆるプロレス技をかけ始めたのよ。 「いじめちゃダメじゃない!」私が子供たちに声をかけたその時、半分のびかけてた牛ガエル君の口から、ポーンと勢いよくザリガニが飛び出したのよ。「やっぱりこいつが食べとったー!」ふたりは口々にそういいながら、地面に落ちたザリガニを手のひらにのせて淋しそうにしていたわ。なんてかわいそうな私の息子たち・・・。なのに今年の夏、誰に聞いたか、――ザリガニは食べられる―― 特に食欲旺盛な二男は近所の仲間たちを引き連れて山程ザリガニを釣ってきたのよ。そして何をしたかって?そう、ザリガニパーティー。去年は大切なペットだったザリガニが、今年は食料になってしまったわけよ。それじゃあ、おまえも牛ガエルと同じじゃないかー。なんて残酷な子供たち。食中毒は大丈夫かい。 それにしても、大鍋でザリガニを見事に茹で上げた料理長がうちのおばあちゃんだときいて二度びっくりよ。「うちが、よーと火を通しといたけん大丈夫ばい」。ひどく心配している私に自信タップリの笑顔を見せてくれたのはいいけれど、「おいしかったとよー」と、舌なめずりする息子に対して絶句しちゃったわ。ザリガニは形からしてエビのような味がするのかしら?天プラにすると案外いけたりして・・・。あーダメダメ私まで・・・。 夏休みもまだ長い。きっとこの夏も冷や汗ダラダラの暑い暑い夏になりそうだわ。 HELP ME!! 芸術の秋は肩が凝る!? 季節を先取りするオシャレな女性が、早くも枯葉色のファッションに身を包み、まだ残暑の厳しい街中を涼しげな顔でさっそうと行き過ぎる。私は、そのお姉さんのツンツンに刈り上げた金髪頭の後姿を見送りながらふと、ショーウィンドウの中に目をやると枯葉といが栗を使ったこれまた秋らしいオブジェがあるじゃない。さっきのお姉さんの刈り上げ頭といが栗が妙にマッチしていてひとりでクスクス笑っちゃったわ。 それにしてもおいしそうな栗よね。私にとって秋のファッションもいいけど、食欲の秋の方はもっともっといいみたい。だけど、こっちの秋の到来には心して立ち向かわなければ、後が大変なの。だから、食べ過ぎに注意!いや、危険!!ぐらいの信号が出た時には、「読書の秋」や「芸術の秋」にさっさと切り替えちゃう。 そうそう、芸術といえば先日、夫の五衛門とバレエを観に出掛けたのよ。ロシアのワガノワバレエアカデミーの創立二六〇周年お記念する日本公演だということで客席はドレスアップした人たちでいっぱいだったわ。そんな中、私たちも少し緊張しながら席に着いたんだけど、ショパンやチャイコフスキーなどのお馴染みの曲が流れたときには嬉しくなって、思わず座席の下でつま先を立て二人そろってバレリーナに変身したんだから。 ほんとに見事なバレエよね。競争率五十倍の難関を突破したうえ、八年間の血の出るような特訓を耐え抜いたダンサーばかりだと聞いて納得したわよ。 だけど男性のタイツ姿には少々目のやり場に困ったわ。そこばかり見てはいけないと思いつつピタリと体にフィットしたその部分にどうしても目線がいくというか・・・。私はそんな自分のおろかさに耐え切れず、五衛門にこっそり白状したの。すると、「オレもさっきから同じところばかり見てたんだ」だって・・・。それを聞いて、今にも吹き出しそうになるのを涙目になりながらも必死でこらえたわよ。苦しかったわ。 こんなところでこんな不謹慎な人間は私たちぐらいだろうと申し訳なく思っていたところに、仲間がいたのよ、仲間が・・・。「あのお兄ちゃんのパンツの中に何か入ってるよ」。 五・六才のその女の子は大きな声でそう言ったの。これにはさすがに周囲の人たちもクスクス笑ったわ。私たちもなんだかホッとして互いにヒジで「ホレ!ホレ!ホレ!」とつつき合っちゃった。 確かに感動的で素晴らしいバレエだったということは言うまでもないけれど、芸術と正しく向き合おうとすればするほど、とんでもないことを考えちゃったり、理由のわからない笑いがこみ上げてきたりでちょっぴり疲れてしまったわ。 講演が終わり席を立つ時に私は五衛門に小声で言ったのよ。「芸術って肩が凝るものなのね」って。そしたら五衛門、「俺たちはまだまだ修行が足りんなぁ」だって。 挑戦しつづける精神が大事 一段、二段、うー痛い!階段の昇り降りがこんなに苦しいなんて・・・。フゥー! 毎年この時季になると必ずこうよ。苺農家の苗植え、どこもきっと同じだろうと思うけど、定植の適期は絶対はずせないし、うちみたいに37アールも苺を作っていると、苗の量だけでもものすごいわけで、どうしても足腰に無理をさせてしまうの。 だからといって悪いことばかりでもないのよ。汗を流すことにより新陳代謝は活発になるし、腹筋を鍛える姿勢で苗植えをするもんだから、気になる下腹もひっこむひっこむ。その上、今、巷ではかわいいキャラクターものの万歩計が流行ってるらしいけど、一万歩を目標にして歩く人たちと、知らぬ間に一万歩以上歩いてる私たちとは、そこに大きな違いはあるものの結果的にたくさん歩けているということは、あるかないよりいい運動になっているというのは事実よね。 それになんといっても、苦労して植えた苺の苗たちが、半年間は甘くておいしい実をたっぷりならせてくれるんだもの。感謝しなくちゃいけないわ。 農家にとって最大の喜びは収穫のとき。だからその収穫に向けて気が遠くなるほどの時を費やし、想いを傾け、汗を流すことができるのよ。なんと一年半という月日がかかるの。仮に私が70才までバリバリ畑で活躍できたとして、苺作りはあと数十回・・・。「農業って毎年、毎年、ただただ同じことの繰り返しじゃないの」なんて夫にぼやいた日もあったけど、本当にあとどれだけ真っ赤な苺の実とご対面できるのかと思うと、改めて身が引き締まる思いがするわね。 ここのところ、集中して台風が日本に上陸したけれど、台風情報が出る度に、私たちお百姓さんはピリピリ敏感になってしまうのよ。台風の進路、大きさ、雨が多いのか、風が強いのか、そういった情報をいち早くキャッチし、作物を守るためにできる限りの対策をたてるの。 先日、鹿児島県は沖永良部島に出かける機会があったんだけど、そこでこんな話を聞いたのよ。 昭和52年、沖永良部島にはそれはそれは大きな台風が上陸し、島はほとんど壊滅状態に陥ってしまったらしいの。これは一大事、ということでそれまで島を離れていた島出身の人達が皆戻ってきて、島の復興のために力を尽くしたこと、それはユリの球根を島中に植えることだった。自分達の家を建て直すことよりもまず先に、島をもう一度花の産地として立て直すことが第一だと考えたらしいわ。その結果、今や全国一の花の産地として後継者も沢山いる元気な沖永良部島に蘇ったわけよ。素晴らしい話でしょう。 自然の力は、人間が長年コツコツと積み上げてきた文化や歴史なんてものも、一瞬にして粉々に打ち砕いてしまうこともあるわね。だけど人間の素晴らしいところは、涙を流しながらも何度でも立ち上がり、挑戦し続ける精神をもっているところなのよ。私も階段の昇り降りぐらいでフゥーフゥー言ってはいられないわね。 その出会いは偶然?必然? 早速だけど嬉しいニュースよ。以前この紙面で我が家の愛車が盗難にあってしまったことを話したかと思うんだけど、な、なんと三ヶ月ぶりに戻ってきたのよ。警察からは「車の部品をバラバラにされてパーツ売りをされているか、ホンコンあたりを走っているかのどちらかでしょうなあ」なんて言われていたもんだから、正直言って随分落ち込んではいたの。だけど、私はあきらめなかったわ。「今にきっと戻って来るんだから!」って奇跡が起こることを信じ続けていたもの。きっとそんな想いが通じたんだわ。 こうして車が出てくると、これまでのせつない日々がウソのようよ。犯人は一体どこのどんなヤツだったのか?なんてことより、とにかく嬉しいの。どんよりとした曇り空が一瞬にしてパアッーと明るく晴れ渡ったような感動で、胸がいっぱいで仕方ないの。とりあえず今から車検のやり直しと車についたあちこちにあるキズやヘコミを修理してやらなくちゃね。 周囲の人達は言うのよ。「いくら好きな車だとは言っても、車検をやり直してまでケチのついた車に乗るの?」って。もちろん乗るわよ。やっと戻ってきたのよ。それも奇跡的によ。けちがついているどころかその逆なんだってば。幸運に満ちた車だといってほしいわね。 とにかくよほどの“縁”でもなければ、こうして戻ってこなかったのは事実よ。 “縁”というのは不思議なものよね。私はね、買い物をするときだって「これこそが私を呼んでいたんだわ」って心に感じるものを買うようにしているのよ。たとえ一枚のハンカチを買うにしても「この絵柄といい、この色合いといい、私と今日ここで出会うためにこの世に誕生し、私の目にとまるようディスプレイされ、レースをヒラヒラさせて待っていたんだ」ってね。だからかしら、私の身の回りのものにはどうしても思い入れが深くなっちゃうわね。 これは物じゃないけど、わが子との出会いだってそれこそ“縁”がある出会いそのものだと思うのよ。この私という母体に奇跡的に宿った生命なんだものね。だけどこの生命、車やハンカチのようにいつもきれいにピカピカ洗ってやればいいというもんじゃないのよね。 先日あるデータを見ていたら、こどもたちは「自分が母親から誇りに思ってもらえているかどうか」って内容だったんだけど、日本の子供たちが23.6%、アメリカの子供たちは92%の数字で母親から誇りに思ってもらえてると思う結果だったの。なんだか日本の子供たちって悲しいよね。子供は親にとってかけがえのない存在であり、その存在は誇らしいものであって当然なんだけどね。親も子も、広くは人間同士全てがもっともっとお互いの存在そのものを認め合っていきたいよね。だけど、そんな想いって日頃から人や物との出会いをいかに大切にし、心の真ん中で受け止めているかってことが原点になるんじゃないかなって思うのよ。―縁は異なもの味なもの―、―小さなご縁を大切に― すべての人にサンキュー 本当言うとね、私のやりたいことはほかにもたくさんあったの。農業をやってる夫と出会い、未知の世界へちょっとした好奇心から、農業を少しだけのぞいてみたくなっちゃったところが、どうしても抜け出せない“虎の穴”のような農業にはまっちゃってね。 肉体労働、日焼けに手荒れ、どれをとっても女性には悪条件のオンパレード。正直言って農業にイヤ気がさした日もあったけれど、それでも私やめることをしなかった。と言うより、これといって決定的なやめる理由がみつかんなくってね。半端な気持ちで途中で投げられないっていうのは私の性格なのかな。そうこうしているうちに日に日に逞しくなっていく自分に気がついたわ。そして何だかそんな自分がとっても好きになれたの。何もかも満たされた生活の中では、こんなに好きになれる自分に出会えなかったかもしれないわ。時間に追われ、仕事に追われ、人間関係の難しさに押しつぶされそうになりながらも今日までやってきたからこそ、小さな喜びや小さな感動が私の中に、百年の生命に匹敵するほどのエネルギーを与えてくれたんだと思う。だからとっても元気。いつでもタフ。 よく、出会う人に言われるのよ。「あなたって農家の主婦らしく見えないわね」って・・・。○○らしさを感じさせないってことは、きっと相手に対して少しばかり不安を抱かせてしまうことになるんだろうけど、それは、日頃とっても誠実!?私に許された唯一楽しい裏切りの瞬間でもあるのよ。 農家の主婦が、夫や仲間たちと公演やったりコンサートやったりと、全国を飛び回るってのは確かにあまり聞かない話だけど、これは私の行き方なの。厳密に言うと今、現在のね。こんな調子だから子供たちにもさびしい思いをさせているわ。 両親にも迷惑かけないわけにはいかない。だけど、母親としての子供に対する責任や、嫁としての親に対する責任にばかりとらわれていると、私はあっと言う間におばあちゃんよ。ガクガク入れ歯で周囲に恨み辛みをボヤくのだけは御免なの。だからね、これまでコツコツ築いてきた家庭との信頼関係にここはひとつあぐらをかかせてもらって、人生悔いなく生きて行かせてもらおうと思って。そしてこれは私たち夫婦の共通の想いでもあるのよね。 子供たちにある日言われたわ。「お父さんとお母さんの行き方ってカッコイイね」って・・・。まさか子供たちの口からそんな嬉しいことばを聞くことができるなんて思っても見なかった。私はこの先、どんなにしたって、完全無欠のパーフェクトな母親にも妻にも嫁にもなれないことを宣言しておくけど、周囲の人たちにいつでも感謝する気持ちだけは忘れずにいようと思ってる。 これから苺の本格的な収穫期に入って行くけど、赤い実をひとつひとつ摘みながら、自分の夢も一つ一つ形にして行こう。「人生捨てたもんじゃない」そんな経験をいくつかしていくうちに、人生そのものが輝きを増していくんだわ。とにかく、愛すべき全ての人に心からサンキュー! |
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